対談 OUR AMERICAN POP CURTURE

テッドインターナショナル 阿出川 輝雄 × FLAT4代表 小森 隆

「サーフィン」と「空冷VWビートル」という米国文化をいち早く日本へ持ち帰り、やがて巻き起こる巨大アメリカン・ブームの牽引役としてそれぞれの分野で大きな功績を残した二人。夢追い人としての野心は今なお健在ながら、その二人が築いてきた時代は、ぼくらに大きな夢と刺激を残してくれた。ビジネスとしても大きな業績を残した二人が、ついに対面を果たし、それそれが奔走してきた当時の思い出について語ってもらった。

photo: 勝村大輔


歳も違い、ビジネス拠点も千葉と東京。特に親しい友人という付き合いをしてきたわけではない。しかし、共通するアメリカ文化への熱狂的な憧れと物へのこだわりがそうさせたのか、過去に偶然の出会いが幾度かあった。対談は、小森さんが取り出した1枚の写真からはじまった。

●出会い

小森:60年代の写真だね。ぼくは、Flat4をまだ始める前、20歳ごろから10年以上サーフィンにどっぷりとはまっててね、その頃に、神田のショップに買いに行ったんですよ、このボードを。普通の家でしたよね。ガラガラと引き戸の入り口を開けて…そんな思いがある。戸を開けて、「ごめんください」と言って中へ入ったら、そこへテッドさんが出て来てくれて、それでボード買ったんですよ。そのときに、そこで会ってるんですよ。

阿出川:親父が神田にビルを持ってて、サーフボードを作るのにちょうどいいからということで、その場所を利用させてもらっていた。最初の店としてスタ−トした場所なんだよ。いつ頃だっけか?

小森:66年ごろだと思います。

阿出川:日本にサーフィンの流行が始まりかけたころですよ。サーフィンを知っている人もまだ少なくて…でも、そのときに、なぜうちでボードを扱ってることを知ったの?

小森:当時、ホワイトデューンというサーフチームが伊豆の白浜にあって、そこでサーフィンを知ったんだけど、そこで知り合ったマイケル柳田って、背の高いやつだったけど、彼からテッド・サーフのことを聞いたんだと思う、それでボ−ドを買いにいったんですよ。当時、4万か5万だったかな…。

阿出川:4万5千円だよ。これは安い板じゃないよ、高い板だったもの(笑)。何かの雑誌で、小森さんがうちのボードを抱えて写ってる写真を見たことがあったけど、わざわざうちに買いに来てくれてたなんてて嬉しいね。でもカスタムでしょこれ。

小森:そうでしたね、オーダーして、確か、後で取りにいった覚えがある。

阿出川:一般の人の月給が18000円とか20000円の時代だよ、高額な商品だったわけよ、当時、サーフボードは。第一ね、車を持っている人も少なかった時代だから、スタートした当時はもしかしたらボードなんか売れないんじゃない、と、思ったこともあったけど、ところが、よく売れたんだよね。

小森:とにかくあの頃は、よく海へ行ってましたよ。夏も冬も。ニーパドルでは地元の奴らだろうと、絶対に誰にも負けない自信あったよ(笑)。膝の下にピンポン玉サイズのタコ作ってたよ。

阿出川:いい波あったら、乗りたくなってしょうがないわけよ。

小森:その頃は、サーフボード積んで走ってたのはほとんどいなかったよね。いつもは湘南へ通ってたけど、伊豆なんかに波があると聞くと、5時間だろうが6時間かかろうが、お構えなしに行ったね。当時は、国道が舗装はされていなかったから砂ぼこりで真っ白になっちゃうわけよ。30円50円なんかの細かく料金所がいくつもあって、ETCなかった時代だから面倒臭かったけどね。1959年のトライアンフTR3-Aでね。ハードトップを作って、それに専用のキャリア取り付けて10フィートのボード乗っけて伊豆まで波乗りしにいってたんだよ。渋滞でオーバーヒートして大変な思いをしたこともあるよ(笑)。

阿出川:カスタムボードを製造してたメーカーなんて、うちぐらいしかなかったんじゃない。まだまだボードの製造方法なんかも正しいノウハウが日本にはなくて、皆、それぞれのやり方でボード削ってたからね。

小森:1本1本大変だったでしょうね。

阿出川:マスクつけてね。当時、エアコンが付いてなくて、夏なんかは窓を開けっ放しで作業するわけ。だから近所にはいい迷惑だよ。暑いから窓あけて仕事するでしょ、そうすると、サンディングで出た削り粉が風に飛んで周辺に飛び散っちゃうわけ…周囲には迷惑かけたよね、今思えば。接着して貼り付けたボードを乾燥させるのも、近くの公園に勝手に持っていって乾かしたり、ビルの外壁に立てかけちゃったりしてね(笑)。やりたい放題。今じゃ考えられないけどね(笑)。そんな場所があったから、サーフィンを仕事としてやっていこうと、決められたわけだけどね。

小森:阿出川さんがサーフボードを作りはじめたきっかけは何だったのですか?

阿出川:アメリカで出会ったのがきっかけ。日本でこれをビジネスとしてやっていけるんじゃないかと、そういう思いがあったね。

1964年、アメリカが見たくて大学3年生のときに憧れだったアメリカへひとり旅立ったテッドさん。1ドル360円の時代。海外への観光旅行規制が緩和されたばかりで観光客も少なく、入国にあたっての条件も厳しかった時代だった。そこでサーフィンとの出会いを果たす。

●アメリカへ

阿出川:64年の東京オリンピックで日本人が活躍している場面というのが記憶にないんだ。そのときにちょうどアメリカに行っててね。何度も、何度も、大使館へ通って、最終的にうちにどれくらいのお金があるのかを調べられて…苦労したよ、渡米するのにも…。第一、持ち込める金額はひとり500ドルまでだったからね、それじゃ足りないから実はもう500ドル、アメ横で闇で1ドル400円のレートで買ってそれ持って行ったよ(笑)。

小森:そうそう、1ドル360円の時代ありましたね。その後300円、280円とドルが安くなっていくんだけどね。でも、高かったね。気楽にいけなかった時代。280円ぐらいになってようやく多くの人が行きやすくなってきたけどね。

阿出川:下宿先の近くにあったホットドック屋によく行くようになって、そこにいた若い奴と仲良くなってさ、そいつがサーフィンやるっていうので、海へ連れてってくれたわけ。そこはサンタモニカで、波は小さいけどボードをかかえて砂浜歩いている大勢のサーファーをみて、これは日本でも流行するなって、直感したわけ。だから、日本に帰国した後に、なんとかサーフボードとか作りたくて、アメリカで盗み見てきたサーフボード作りを、日本にある材料だけで作り始めたのがボード作りのスタート。それが神田のショップってわけ。

小森:そうだったんですか….サンタモニカビーチね、懐かしいな、コロラド・アベニューのところ。その先にサンタモニカ・ピアがあるんですけど、ぼくは12年間ほどそこに住んでたんですよ。1990年ごろだけど、フラット4はじめてしばらくたったころに、アメリカに現地法人を作りたくて、そこにアパート借りてね。

阿出川:小森さんがアメリカに最初に行ったのはいつ頃なの?

小森:ぼくがアメリカ行ったのは、テッドさんよりずっと後の1974年ですよ。

阿出川:何が理由だったの、最初にアメリカに行ったのは?

小森:ぼくは、ビートルですよ。アメリカにワーゲンのパーツを買いに行ったのが最初。友人が1302sの新車に乗っていて、その車を譲り受けたんですよ、72年に。それがワーゲンに出会うきっかけになったんだけど、でも、その車は新しいじゃない、それにフロントがストラットで、それじゃつまんないわけよ。それで、その車を売って、その資金でアメリカにVWのパーツをVWのイベントに買いにいったってわけ。島田洋書という洋書扱っている書店があって、そこでHOT VWsという米国の雑誌をよく買って見てたんだけど、そこにVWのイベント「バグイン」のことが出ててね。VWを扱っている店とかの広告も載ってて、そこに住所とかも出てるじゃない。それを切り取って探していったりね(笑)。

阿出川:じゃ、その頃? ぼくと同じ飛行機に乗り合わせたのは?

小森:確かそうだと思いますよ。

ボードを購入しに小森さんがテッドさんの神田のショップを訪れてから、10年ぐらいが経過した頃、お互い、カリフォルニアと日本を往復しながら、それぞれのビジネスをスタートさせ多忙な毎日を送っていた。そんなとき、米国からの帰りの飛行機で2人は偶然にも隣り合わせとなったことがある。

●空冷VWのパ−ツを探しに

阿出川:買い込んだパーツを段ボールに入れ、それを飛行機に持ち込んできて、シートのところでいじってるわけ。アメリカって言えば、その当時、買ってくるものと言えば、エロ本じゃない。横から見てたらそういうのも入ってて、それを見つからないようにって、どうやって隠せばいいかな〜なんてね。話をしたね(笑)。

小森:そうでしたね、プレイボーイとかペントハウスとか、ハスラーなんかの雑誌を友人へのおみやげとして持って帰ってくるのは、ぼくらの役割でもあったしね(笑)見つかると、没収されちゃうしね、隠すの大変だったよ(笑)。

小森:テッドさんは何をし行ってたの?

阿出川:VANSのシューズとかをアメリカから持ってきてた。そうしたものを神田のショップやアメ横で売るために持って帰ってきてたんだ。同じく段ボールに入れてね(笑)。手荷物だから、50足ぐらいしか持ってこれないわけ。

小森:お互い苦労したてね(笑)。クイックシフターとか、ステアリングとか、ウインドクランクとか、ウッド関係のアクセサリーなんかを買ってきたね。アメリカではザックザック見つけられたからね…宝物でしたよね、アメリカで見つけて買ってきた物は。

阿出川:それが商売になっていったわけ?

小森:そう。ワーゲンのクラブがあってクラブの連中を代表して、自分が買いに行っていたのが、やがてクラブメンバー以外にも欲しい人がいてね。でも、ぼくは、世界一のワーゲンを自分で作ろうと思って、1952年のスプリットウインドをね、VWのディーラーから譲ってもらって、4台を1台に作ったのも、もうひとつのきっかけなんだよ。うちの最初のデモカーですよ。それを完成させるためのパーツが必要になって、そのパーツをアメリカに買付にいって、それが、どんどん膨らんでいって商売になったんだよね。

小森:強烈にアメリカに憧れていましたよ。我々の世代は、とくに皆アメリカが好きでしたよね。フリーウェイのルート10とか5とか、ほとんどがワーゲンのビートルが走ってたのには驚いたね。今じゃ日本車が溢れてるけど、その当時は日本車はほどんどなくて、ワーゲンだったね、走ってるのは。新鮮だったな、あの光景は。

阿出川:日本でもサーファーたちはよくワーゲンに乗ってたよね。ぼくもワーゲンのバスに乗って、日本中旅して歩いたときあるよ。そのときの写真もあるけど、6ボルトのバスで、車中泊。夜は暗いから、昼しかドライブしなかったけどね。サーフィン広める目的が、サーフィンより車の方が興味あったみたい(笑)。

小森:サーファーはワーゲン好きなのが多かったよね。アメリカ好きが多かったのが理由だろうけど、当時サーフィンやってた奴らみんなビートル乗ってたような気がする。

阿出川:サーフィンとVWって相性がいいのかな?テッドのショップ前なんかにもよくワーゲン停まっていたもの。

小森:フラット4にも、ビーチサンダル履いてるようなお客が来てましたよ。蒲田でザ・サーフというサーフショップやっていた紀藤さんなんかとも湘南とかでよく会ったりして友人だったけど、彼もビートル乗ってたよね。面白い話があって、当時、マイク真木さんが、ワーゲンキャンパーに乗ってて、もういらないから買ってくれないかというので、河口湖までそのタイプ2を受け取りに行ったことがあるんだよ。で、その15〜6年後、ザ・サーフの紀藤さんがちょうどカリフォルニアに移住したとき、ワーゲン欲しい人がいるから探してくれないかって連絡もらって。ぼくもサンタモニカにいたときだったから、現地で21ウインドーズのバスみつけて、持って行ったら、そこに居たのがサーフィン留学で、紀藤さんのところに来てた長男の真木蔵人君なわけ。親父からワーゲン買って、しばらくしたら、今度はその息子にワーゲン売ってるんだから、妙な縁だよね。そのバスは、今は、オモチャコレクターの北原さんが大切にコレクションとしてディスプレイしているよ。

阿出川:サーフィン好き、ワーゲン好きの輪はいろいろと不思議な縁を作ってくれたのかもね。

66年に神田のビルの一角で手探りではじめたボード製造ビジネス。片や、30歳まで建築の仕事に携わっていながらも、自分の車を作りたいという一心で、78年に自らオープンさせたワーゲンのスペシャルショップ。どちらも全てが自分たちの手で開拓していったビジネスだった。

●自分たちで開拓してきたビジネス

小森:30歳まで建築の仕事をやっていたのが、ぜんぜん車とは関係なかったんだけど、自分の車を作りたいという気持ちからはじまってやがてワーゲンのビジネスを76年に店を持つようになっちゃったね。

阿出川:商社はサーフィンなどの小さな商売には手を出さないわけよ。

小森:車の世界もまったく同じですよ。いわゆる隙き間ビジネスですね。好きな人がやりはじめれば、いくらでも大きくなっていけたという時代だったんでしょうね。VWの世界でも同じような仲間もいたしね。一時、スキャットなんていう同業者もありましたけど、大手商社などは入ってこなくてね。

阿出川:一時、伊藤忠や丸紅とかいった商社の人とも話もしたけど、みんなサーフィンに興味なかったみたいだね。そんな中で、高島屋がサーフィンに興味を持ってくれて、そのときの社長さんがサーフィンに興味に持ってたんじゃないかな、日本橋高島屋のショーウインドにボードを飾ってくれてね…そのボードはすぐに売れたね。その後、銀座の三越などがショーウインドに飾ってくれて、その後だよね、一般にサーフィンが少しずつ知れていったのは。

小森:商社が相手してくれなかったこともあって、自分たちが全部やっていかなければいけなかったしね。段ボールを手で運んでこれた時代はよかったよね。でも、やがて、それじゃ足りなくなってくるわけじゃない。

阿出川:小さな商社に頼んで、例えばウレタンを300本とか一気に入れるようになっていったね。タタミ草履などの商品も飛ぶように売れるから、1万足分なんかを入れなくちゃいけないようになっていったからね。

小森:ぼくの場合は、自分でアメリカのフォワーダーを探して、自分で輸入の手続きをとりましたよ。輸入事業を全部、自分で探してやりはじめたよ。最初は、手荷物からはじまったけど、エンジンなどは持ち込めないしね。ロングビーチにフォワーダーが多くいて、それを探して、あと日本の通関屋ね、通関事務所なんかも自分で探して、車の輸入業務をスタートさせていったね。

阿出川:通関も大変。3本グレッグノールのボ−ドを輸入したんだけど、1枚書類が揃ってなくって、1週間ほど通ったけど、書類ないから出せないというだよね…厳しかったね….。最終的にはかわいそうに思ったのか、融通聞いてくれたけどね(笑)。情熱が伝わったのかな?

小森:車はそうはいかないよね、通関書類がなくちゃ、入れることなんかできなかったけどね。しかも、高い関税を納付して…とにかく大変だったよね。

阿出川:俺もいくらでもあったよ。買ったものが届かなかったことなんかもあったよ。リーシュコードとかも届かなかったよね。そこでめげないで続けていったから、今まで続けてこれたんだよね。

小森:買う側だったから、ろくに英語話せなくっても相手は理解してくれて、購入することはできたけどね…お金おいて帰ってくるんだけど、商品が届かないなんてこともよくあったよ。リスクだよね。欲しいから購入するんだけど、もしかしたら届かないかも…そういう時代もあったよ。

リスクを負いながらも、アメリカからの輸入業務を続けた二人。好きだからこそできる仕事。求めている声がある限り、その要望に答えていきたいという強い気持ちがモチベーションとなり日本にブームを定着させた。趣味と仕事の両立。境界線がないからこそ、楽しく今まで続けてこられたに違いない。

●遊びと仕事の区切り

小森:ボク的には区切りがないんだけど、どう? 趣味が仕事となっているね。好きなことを追いかけてきて、ここまできちゃったという感じかな。ここまで仕事を続けてこれた理由は、お客さまが喜んでくれるのが自分も嬉しいし、その繰り返しだよね。ワーゲン乗りがこういうのが欲しいじゃないかな、と思ったものをどんどん供給していくことが喜びだな。欲しいものが探せなければ作るし、必要な人がいれば全世界にそれを供給するしね。ステアリングホイールとかアルミホイールとか、シフターとか、エアコンキットね、これらが売れるし、欲しがってるだよねユーザーたちは。チームのメンバーにパーツを買ってきたことに、はじまって、考えてみればそのまんまだね。感覚は昔と同じだね(笑)。

阿出川:ぼくの場合は、サーフィンからはじまって、幅が広くなってきたって感じかな。サーフィンの裾野が広くなったんだろうね。サーフボードからはじめてシューズやファッション、雑貨とね。MADE IN USAの本が出版されて、あっという間に、日本中に広まっていったね。アメリカから持ってくれば何でも売れた時代に入るわけ。アメリカがブームになった時代だったね。

小森:行くたびに発見だらけで、心躍ったよね、楽しかった。「カリフォルニアルック」っていうフレーズは、74年ぐらいに現地で生まれて言葉だよ。カリフォルニアは、とくにオレンジかウンティあたりはワーゲンでカスタムをつくる人間たちが多くいて、ホットロッドにしたり、そこで西海岸で新しい文化が生まれていったわけで、専門ショップも多かったしね。カリフォルニアのワーゲンフリークたちのライフスタイルというかフィーリングを日本にもってくるのが好きだったし、それが仕事になった。

阿出川:ぼくも純粋にサーフィンが好きだったから、アメリカやハワイに通ったけど、同時に、アメリカの文化も好きだったんだろうね。アメリカの文化を語る上で、サーフィンもないとはじまらないってことのもあって、それで自分でサーフボード作って、それを売って、そして日本にサーフィンというものをプロモーションして歩いていったってことなわけ。アメリカが好きだったから、サーフィンを自分のなかでも、ビジネスとしてもうまくやっていけたんだと思う。

50年代、60年代のアメリカに憧れ、アメリカ文化を仕事としてしまった二人。その刺激的で感動的なアメリカのおもしろさも、ディケードとともに徐々に減ってきていると言う。古き良きアメリカ。そこには、夢が溢れていた。その時代のときめきが、二人の心には今なお残っている。

●カリフォルニアとの今後のつながり

阿出川:アメリカ人自体も変わったね。見た目も変わったよね。60年代、70年代、80年代と変っていったしね、今こうだってのが言えないな。

小森:移民の国だから、いろいろな国籍が増えて、カリフォルニアは変わってきたね。町中ハングル文字から中国語からメキシカンから…。

小森:ぼくが現地法人を立ち上げて、現地のハブとして、車やパ−ツの買付をして日本に輸入していた80年代終わりごろから90年にかけては、生活するには居心地は悪くはなかったけど、だんだんと魅力がなくなってきたよね。阿出川さんが行かれていた60年代ごろは最高だったと思いますよ。

阿出川:70年代後半とか時間とともに、サーフィンといのは当たり前になっていく時代がくるでしょ。だから、面白さという点では60年代が最高だったのかもね。アメリカに行き出した頃が刺激的で良かったかもね。張り合いもあったしね。

小森:50年代、60年代の良きアメリカが変わってきたのは確かだね。当時を知っているし、憧れてきたから、なんだか余計に残念だよね。ここ30年ぐらい、そうした良き時代のアメリカのジュークボックスを集めてきてたんだよ。ライティングもデザインもきれいでしょ。動きがいいじゃない。そして音がなるんだよ。130台ぐらいなっていて、千葉の佐倉に倉庫を借りたの。でも、倉庫で保管しているのにもお金かかってしかたないから、1台1台オーバーホールして販売はじめてるんですよ。フラット4の2軒隣にショールーム作ってね…そしたら、意外と引き合いがあるんだよね。売れるんですよ、これが、誰もやってないでしょ、昔のものだから。

阿出川:また、好きなことが商売になってきてる(笑)。

小森:ただし問題なのは、昔のものだから、これを直す人がいないってことなんだよ。真空管だった時代のものでしょ、それが60年代からトランジスターに変わるわけ。裏を見たら配線も複雑で、直す職人が高齢でごくごく少人数だしね。車より難しいんだよ。ジュークボックスは、動いて、音が出て価値があるじゃないですか…動かなかったら車と同じで邪魔ものですよ(笑)むかしの電蓄みたいなもんだよね、木のキャビネットでね、それが動くんだよ。昔の物は格好いいですよ。夢あるし。

阿出川:昔のものはデザインがいいね。

小森:モノラルでいい音を奏でる。40〜50年代のジュークボックスなんかはモノラルなのに、とてもいい音が出るんですよね。すごいです。

阿出川:こういうもの見てると、あの時代のアメリカってのは本当に豊かだったな、って思えるよね。夢あるね。

小森:仕事やめたいんだけどね..(笑)やることいっぱいまだあって困ってるよ。でも、これらの文化を後世に残さないとね…。

阿出川:サーフボードにしろ、サーフィンカルチャーにしろ、車も必需品だったし、夢あったよ。ぼくらがやってきたこと、すべてのバックボーンは、良きアメリカだと思う。50年代、60年代のアメリカだね。夢があった時代だったしね。

text:吉田 文平 (2015年5月1日発行 Cal掲載記事全文)

66年小森さん相模川河口

66年小森さん伊豆多々戸浜

東京神田にオープンしたTED SURF SHOP

60年代阿出川さん

神田のショップ裏に置かれたボード

ウレタン発泡の作業には防毒マスクが使われた

68年阿出川さん工場にて

64年阿出川さん渡米

69年Malibu Beach

72年東京晴海で開催されたスポーツ用品見本市

74年VWバスでの四国サーフィントリップ

72年鵠沼海岸

70年代太東海岸

70年代TED SURF SHOP千葉太東

 

小森さん(左)と阿出川さん(右)

テッド阿出川(本名:Teruo Adegawa)

1943年生まれ。日本におけるボードビルダーの草分け的存在。66年に東京神田にサーフショップをオープンしボード製造業を行う傍ら16ミリサーフィン映画の製作、サーフファッション&グッズの輸入販売、コラム執筆など数々の活躍で、日本にアメリカ&サーフィン文化の潮流を生み出してきた。

小森 隆(Takashi Komori)

1946年生まれ。空冷VWのスペシャルショップ“FLAT4”代表。VWビートルに魅せられて74年からカリフォルニアのイベントに通いながら、空冷VWカスタム・ホービーシーンを日本に広めていった立役者。すでに3000台以上もの空冷VWのレストア・販売を手がけ日本におけるビートル・ブームを牽引してきた。